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「古典籍をあじわう」の連載について

[2008年3月28日]

京都府立総合資料館には数多くの貴重書が収蔵されています。

この連載では、それらの資料について、本学文学部の教員及び総合資料館職員が紹介します。

その一 源氏物語 (京都新聞・平成19年3月1日・朝刊掲載)

 源氏物語は十一世紀初頭の寛弘年間に成立し、およそ千年にわたリ読み継がれてきました。ただ、印刷術が普及する江戸時代までは筆写による写本でしか読むことができませんでした。

 人の手で書き写されるため、間違って写したリ、意図的に文章を変えることもよく起こリます。すでに平安末期には、紫式部のオリジナルとは、細部が異なる写本が世に出ていたようです。巻数も現行の五十四帖以外に、後の人が付け足した巻も存在していました。平安時代の源氏物語が、紫式部自筆本を含め、具体的にどのような本文だったのかはわかりません。

 今私たちが読んでいる源氏物語のもとになったのは、十三世紀に藤原定家が本文を整えた「青表紙本」と呼ぱれるものです。定家が自ら一部を書いた青表紙本の原本は、四帖が現存しています。また、定家と同時代の河内守源光行・親行父子も別に校訂本又を作成しました。これは「河内本」と呼ぱれ、室町中期まではむしろ河内本の方が一般的な源氏物語の本文でした。

 京都府立総合資料館には三点の源氏物語写本があリますが、いずれも青表紙本系統の本文です。写真は江戸初期の歌人鳥丸光広が書写したと伝えられる豪華本で、慶事の際の調度品(嫁入リ本)だったと思われます。

 

(京都府立大学文学部助教授 安達敬子)

その二 西鶴「万の文反古」 (京都新聞・平成19年3月22日・朝刊掲載)

 江戸時代革前期の一六七〇年代は、口語を用いて軽妙さを求めた「談林俳譜」が大流行した時期でした。中心人物は西山宗因。井原西鶴は宗因のもとで活躍していましたが、宗因の亡くなった一六八二年、四十一歳の時に、「好色一代男」を世に送り出しました。当時の風俗娯楽小説だった浮世草子の最初の作品です。浮世草子は、およそ百年間流行します。
 西鶴は生前に二十作品ほどを刊行しましたが、一六九三年に没した後も、弟子の北条団水の手によって、遺稿集が五作品も出版されています。西鶴は大人気作家だったのです。
 京都府立総合資料館には、西鶴の遺稿集の一つ「万の文反古」があります。日本で唯一の、全五冊がそろった初版本で、たいへん貴重です。書簡体の短編小説集で、第四遺稿集に当たります。
 写真の図版は、巻二の三「京にも思ふやう成(なる)事なし」の夫婦げんかの様子です。
 しっと深い妻を仙台に残し、黙って入り婿先を出て上京した男は、その後の十七年間で二十三人の女と京都で所帯を持ちますが、ことごとく失敗します。男は今は落ちぶれて、伏見の裏長屋でその日暮らし。故郷の知人に、最初の妻が自分を待ち続けずに他の男と再婚するように説得を依頼しますが、命があれば出家して故郷仙台に戻りたいと、未練を残した言葉で手紙は結ばれます。
 総合資料館には、他に「諸艶大鑑(好色二代男)」「世間胸算用」「西鶴置土産」などの貴重な西鶴本もあります。

 

(京都府立大学文学部助教授 藤原英城)

その三 嵯峨本「楊貴妃」 (京都新聞・平成19年4月5日・朝刊掲載)

 嵯峨本(光悦本)は、今からおよそ四百年前の慶長年間に、本阿弥光悦とその問流によって京都の嵯峨の地で出版された書物の総称です。銀色に輝く雲母を用いて多種多彩な文様を摺り出した美しい紙に、木活字によって多くは一字の活字、中には二字、三字と連続した活字も用いて印刷されています。古今和歌集、伊勢物語、方丈記、徒然草などの代表的な古典文学が次々と刊行されて、古典の普及と啓蒙に大きな役割を果たし、近世文学発展の道を開いたことに高い価値があります。
 その古典文学の一つが謡本です。謡本は能(謡曲)の詞章(文章)を記し、それに節を表す譜点を付けたものです。総合資料館には「呉羽(呉服)」「白楽天」「楊貴妃」の三本が所蔵されています。
 写真は「楊貴妃」の本文の一部です。楊貴妃は八世紀の中国・唐の玄宗皇帝に愛されながらも、戦乱の最中悲劇の死を遂げた女性です。後に唐の詩人白楽天の長恨歌に歌われ、平安時代の日本でも源氏物語に引用されるなど広く知られました。
 能「楊貴妃」は長恨歌などに基づいて作られた曲で、玄宗に遣わされた方士(神仙術を行う人)が楊貴妃の霊魂の行方を尋ねて蓬莱宮を訪れるという物語です。写真の左ページの本文四行目から六行日にかけての「天にあらはねかはくは比翼の鳥とならむ 地にあらは願はくは連理の枝とならむ」という、玄宗と楊貴妃の誓いの言葉は特に有名です。「比翼の鳥、連理の枝」は男女和合を象徴する愛の言葉なのです。

 

(京都府立大学文学部教授 山崎福之)

その四 「金瓶梅」張竹坡本 (京都新聞・平成19年4月26日・朝刊掲載)

 この題名を見て、ドキッとされた方もおられるかもしれません。そう、金瓶梅こそは、多分世界一有名な大人向けの小説なのです。でもただの大人向け小説では、四大奇書の一つとして、中国文学の傑作に数えられるはずもありません。
 金瓶梅は、やはり四大奇書に数えられる任侠物語「水滸伝」のパロディー小説です。水滸伝では、豪傑たちが悪人どもを痛快に退治しますが、実際にはそんなことはありえません。金瓶梅の作者は現実を描こうとしました。作者は、水滸伝の中で豪傑に成敗される西門慶・潘金連という魅力的な悪人カップルが殺されずにすんだことにして、その後の物語を書きました。そこに描かれるのは、権勢欲・食欲・金銭欲・性欲などあらゆる欲望が渦巻くさまです。そして、金と権力さえあれば何でもできるという、地獄のようなこの世の実態が事細かに語られていきます。
 この小説は、多分十六世紀の後半ごろ、明代後期にある知識人によって書かれました。はじめは一部の人が回し読みしていましたが、出版されるようになると、読みやすいように改作されます。更に清代に入ると、張竹坡という人が「批評」を付けた本を作りました。批評というのは、「ここがこう面白いよ」とおせっかいに読み方を説明するもので、場合によっては本文より面白いということで大変受けました。写真で本文の上や行間に見える小さい文字が批評です。資料館にあるのは、張竹坡本の中でもかなり古い貴重なものです。

 

(京都府立大学文学部教授 小松謙)

その五 「平家物語」屋代本 (京都新聞・平成19年5月3日・朝刊掲載)

 「平家物語」には、物語の構成や描かれるエピソードなどの異なる異本が数多くあります。異本は、延慶本などの読み本系と、琵琶法師の語りを反映するといわれる(語りそのままではない)語り物系に大きく分けられます。
 語り物系の中で、平家の嫡流の六代の死を記して、「それよりして平家の子孫は絶え果てけり」を全巻の結びとする十二巻仕立ての平家物語が、屋代本です。覚一本は、巻十二のあとに灌頂巻を立てて、建礼門院の大原での生活や往生などを記して物語を終えます。つまり、屋代本と覚一本が語り物系二タイプの代表で、本文の成立も似通った時期と考えられるもの。現存語り物系平家物語の最も古い二本です。
 覚一本の構成は人気があったらしいのですが、屋代本と同じ十二巻構成の異本も、室町時代に作られ続けます。平家物語の結びはやはり平家が滅び果てることでなくては、と考える人々がいたということでしょう。資料館蔵の百二十句本もそういう平家物語です。
 屋代本は、府総合資料館が巻二(主に鹿ケ谷事件関与者の逮捕・処刑・流罪を描く)を所蔵、巻四と巻九は欠巻(現存していない、または、見つかっていない)で、残りは国学院大学にあります。したがって、屋代本について解説する場合には必ず総合資料館のこの巻二が紹介されます。保存状態の大変よい本で、美しい白界と凡帳面な文字には見とれてしまうほど。江戸後期の国学者・蔵書家屋代弘賢が大切に扱ったものを、後の所蔵者も大切にしてきたのでしょう。蔵書印「不忍文庫」も鮮明です。

 

(京都府立大学文学部教授 池田敬子)

その六 全韻玉篇 (京都新聞・平成19年5月24日・朝刊掲載)

 全韻玉篇(上下二冊)は、一九世紀に朝鮮で刊行された漢字辞書です。中国の康熙字典にならい、部首の画数順に漢字を配列しています。
 冒頭の「一」をみますと、まずハングルで漢字の朝鮮音イルを示しています。次に漢字で、一とは数の始まりである。画数の始めである、などの意味を簡単に記し、最後に一は「質」という韻の文字と注記しています。
 韻とは、簡単に言えば、中国語の母音とイントネーションです。この韻の明示が全ての漢字にわたっていますので、全韻というわけです。韻をふむ漢詩などの参考書を意図したものでしょう。
 それでは玉篇とは何でしょう。玉篇とはもともと中国で作られた漢字辞書です。原本系と大広益会系との二種類があります。
 原本系は六世紀に成立し、もともと三十巻あったのですが中国では滅び、数巻のみ日本に残っています。とくに奈良時代の文献にその影響のあとが色濃くみてとれます。平安時代に入っても篆隷万象名義などの古辞書の根本資料となりました。
 一方、大広益会系は十二世紀に作成され、倭玉篇という、室町時代に作られ江戸時代を通して広く用いられた漢和辞典に多大な影響を与えました。
 しかし、全韻玉篇は朝鮮独自の辞書です。玉篇と名づけられたのは、玉篇が部首引き辞書の代名詞だったからでしょう。資料館所蔵本は「庚戌」の刊記をもち、一八五〇年の再版本です。

 

(京都府立大学文学部教授 井野口孝)

その七 奈良絵本 (京都新聞・平成19年6月7日・朝刊掲載)

 奈良絵本は、室町時代の終わりから江戸時代前期までの約百五十年間に、多くが京都周辺で制作販売された彩色の絵入り冊子本をさします。手書きで作られ、中には金泥極彩色の豪華本もありました。内容は、主に御伽草子や幸若舞曲ですが、伊勢物語などの平安時代の物語作品や徒然草といった例などもあります。同時期にさかんに作られた絵巻とともに、大名や富裕な町人などが購入したと考えられています。
 府総合資料館には二種類の奈良絵本がありますが、写真は江戸初期の御伽草子(文正草子)で、最も数多く作られた人気作品の一つでした。
 常陸の国(茨城県)鹿島神宮に仕える雑色(下働き)の文正が、鹿島明神の加護によりトントン拍子に財産を築き、ついには娘二人が、関白の北の方(正妻)、帝の女御(妃)に納まり、自分は大納言になるという究極の成り上がり物語です。娘が玉の輿に乗って父親が出世するめでたい筋書きなので、縁起を担ぐ嫁入り本として最適でした。また、町屋では娘の良縁を願って正月の文始め(読み初め)に用いられたとも言われています。
 写真は、文正夫婦が鹿島明神に申し子を授けてくれるよう祈願する場面です。申し子を一人祈願したのに、明神はなんと二人も美しい姫君を授けてくれました。こんなところにも文正の幸運ぶりが表れています。
 資料館にあるもう一つの、平家の公達の悲劇的な死を描いた「敦盛」も、大変美しい彩色が施された奈良絵本です。

 

(京都府立大学文学部教授 安達敬子)

その八 中興禅林風月集抄 (京都新聞・平成19年6月28日・朝刊掲載)

   室町時代において、現代と同様に教科書を用いて授業が行われることがありました。教科書としては、「論語」「荘子」等の漢籍のほか「日本書紀」などの国書や仏教書が用いられました。これは、当時これらの書物の読解が必要であったことを示しています。
 授業の様子は、聴講する生徒が先生の話を書き取った「聞書」と呼ばれる書物が、よく伝えています。授業の内容のみならず、先生のことばを一々書き留めたものもあるのです。「おお、今朝はとんと寒いなあ」といった口ぶりから、「この本は今手元にないから、よく分からないよ」といった言い訳まで、詳細に書き記されています。講義録ならではといえるでしょう。
 したがって、この種の書物から室町時代の話しことばを見てとることができます。「犬の前の説教」「麦と嫁とは踏んだが良い」などの諺の使用は、その一例です。現在は使われていませんが、ニュアンスは伝わってきます。
 中興禅林風月集抄は、「中興禅林風月集」という漢詩集を教科書とし、解説した書物です。「抄」というのは、注釈するという意味を表します。写真のように漢字片仮名交じり文になっているのは、当時の学問的書物は平仮名でなく片仮名を用いていたためです。
 この書物も、聞書風の口語体で記されています。現在の京都弁に通ずる「はんなり」という語が見られますが、これは、この語が室町時代から使われていたことを示す貴重な例です。
 総合資料館には、このほかにも「史記抄」「日本書紀神代巻抄」など同種の貴重な書物が所蔵されています。

 

(京都府立大学文学部准教授 青木博史)

その九 三人法師-室町物語 (京都新聞・平成19年7月5日・朝刊掲載)

  御伽草子と呼ばれる短編の物語類は、大半の作品の成立が室町時代ということから、近年、室町物語という呼称がよく使われるようになりました。
 室町物語には性格の異なる大量の作品がありますが、三人法師はいかにも中世的な発心・出家・遁世というテーマを扱うもの。慶長十年(一六〇五)には読まれていた記録がありますから、室町後期の成立でしょう。残念ながら写本は見出されていません。
 題名どおり、高野山で出会った三人の僧が、出家の理由を順に語るという巡り物語の趣向。ドラマティックな構成で、最初に話した僧は、恋人が殺されて犯人もわからず敵討ちもできず、恋人の菩提を弔おうと出家したのですが、二人目の僧が犯人の盗賊だというのです。これには出典があって、沙石集という鎌倉時代の説話集に類似の説話があります。作者は時代設定と人物設定を具体的にしてやや長い物語にしました。三人目は、家族を捨てて出家遁世した男が、後日、偶然目撃することになった我が子の悲惨な有様に動揺しながらも、遁世を貫くというもの。これも元になる説話があります。
 室町物語は、既に知られている物語・説話・伝承などを巧みにアレンジして編集したものがほとんどで、そこに作者の腕の見せ所があったといえます。
 府総合資料館の三人法師は、下巻だけが挿絵を赤と緑で彩色した丹緑本という変な出来上がり。江戸初期の本屋さんが、売り上げを狙って大急ぎで出版した様子がしのばれます。

 

(京都府立大学文学部教授 池田敬子)

その十 直江版「文選」 (京都新聞・平成19年7月26日・朝刊掲載)

 南朝梁の昭明太子蕭統によって文選が編さんされた六世紀前半は、美文が尊重された時代で、四字六字の対句を多用した駢儷文が盛んに作られました。蕭統は、周代から梁までの約千年の間につくられた文学作品の中から、華麗なことばによって深い思索のあとを表現しえたものを厳選し、一つの詩文集にまとめました。この書によって歴代文学の粋を味わえるだけでなく、唐以前の文学のありようや文学観をうかがいしることができます。
 随唐以降、科挙に詩賦が課せられたこともあって、文選は盛んに読まれ、研究されるようになりました。かの杜甫の詩も文選の強い影響下にあります。写真は、三国志でおなじみ魏の曹操の「短歌行」を収めた部分です。「酒に対して当に歌うべし、人生 幾何ぞ」という有名な一節ではじまるうたの間に見える小さな双行の文字は、唐代の人々によって付けられた注で、文選の理解に不可欠であり、それ自体が重要な古典資料でもあります。
 日本にも早くから文選は伝わりました。枕草子に「書は文集・文選」とあるように、平安時代には白楽天の詩文を収めた白氏文集と並んで必須の教養書でした。鎌倉以降、文選の流行は衰えを見せますが、江戸時代になっても依然として文選は文人たちに少なからぬ影響を与えたと言われています。
 総合資料館所蔵の直江版「文選」は、一六〇七年、上杉謙信の養子景勝の家臣直江兼続の委嘱によって、京都要法寺で刊行されました。古活字版の文選として知られた貴重なものです。

 

(京都府立大学文学部准教授 林香奈)

その十一 古今大事 (京都新聞・平成19年8月2日・朝刊掲載)

 古今和歌集は、最初の勅撰和歌集。勅撰集は、天皇や上皇が命じて編集される国家的な文化事業でした。平安時代初期には勅撰の漢詩集も編集されています。日本が中国文化を消化し、独自の文化を発揮するようになって、九〇五年に古今和歌集はひとまず完成しました。
 古今和歌集は、和歌の聖典とされました。ところが、次第に奇怪で神秘的な解釈が流行するようになります。古今和歌集の仮名序には、柿本人麿と山辺(万葉集では山部)赤人とでは、力量に優劣がつけられないと書かれています。総合資料館の古今大事は、赤人は実は聖武天皇で、だから人麿に劣ることがないのだと説明します。
 猿丸大夫の正体は道鏡、六歌仙のひとり喜撰法師は清和天皇と、信じられないような説が堂々と書かれています。柿本人麿は、百二十歳以上も生きたと考えられていたようです。中世以後、人麿の図像が老人の姿で描かれるのも、こうした説に基づいています。
 古今大事は、一二九七年に冷泉家の初代為相が、大江広貞に書き与えた古今和歌集の注釈書の、さらに重要な口伝集とされています。「古今集極秘之大事」とも呼ばれます。ただし、大江広貞という人物は未詳。著者が為相であったというのも不審です。藤原竣成-定家-為家-為相と続く「歌の家」の権威を利用しようとしているのです。
 中世の人々の神秘主義的な世界を教えてくれる古今和歌集の注釈書が、総合資料館にはほかにも多くあります。

 

(京都府立大学文学部教授 赤瀬信吾)

その十二 人車記 (京都新聞・平成19年8月23日・朝刊掲載)

    「じんしゃき」と読み、平安時代後期の公家である平信範の日記です。記事が残っている期間は一一三二年から一一七一年までですが、この間、一一五六(保元元)年に、「保元の乱」とよばれる戦乱があり、「人車記」はそれを書き記していることで有名です。保元の乱は、長らく平安であった都の中で起こった戦乱であり、後の「武者の世」を予感させるものでした。また、「人車記」には、宮中での儀式の詳細な記録が数多く残されています。
  資料館の「人車記」は一一四一年から一一六九年までの二十八冊、菊花文が刷り出されたきれいな朱色の表紙で装丁されています。奥書によれば、江戸時代の一八二八年に当時七十三歳の日野資矩という公家の手で写されたことがわかります。「病気で手が震えてうまく書けない」などともあり、苦労して写している様子がうかがえます。
   資矩は信範の子孫ではありませんが、公家は、直接の父祖の日記のみならず、時にはよその家の日記を借りて書写し勉強しました。現代のようなコピー機などはない時代、大変なことだったと思います。平成の世に平安時代以来の多くの日記が伝わり、歴史研究に大いに役立っているのもその努力のおかげです。
    さて、この日記は、記主である信範の「信」の人偏と「範」の「車」を合わせて「人車記」と称されるのですが、「兵範記」とも呼ばれています。いわれは考えてみてください(ヒントは、資料館のホームページの貴重書データベースを見てください)。

 

(府立総合資料館資料主任 西村隆)

その十三 薬師霊場記 (京都新聞・平成19年9月6日・朝刊掲載)

  薬師如来は、古来より病気平癒を願う人々の信仰を集めてきました。「薬師霊場記」は、延暦寺や平等寺(因幡薬師)等、七仏薬師と称する七ヶ寺と、蛸薬師等の十二の名薬師の起源、沿革、由来等の縁起を記したもので、総合資料館と国立国会図書館にしか所蔵が確認されていない希少本です。
    著者は、山形県の最上川沿いにある船問屋の主人で俳人でもあった高野一栄という人です。京都から遠く離れた東北地方に住みながら、このような著作を残した一栄は、裕福な豪商であり、深い教養の持ち主でもありました。松尾芭蕉は、「奥の細道」の旅で一栄宅に滞在し「五月雨を集めて速し最上川」の句を詠みました。
   本書の中から新京極の蛸薬師(永福寺)の由来をご紹介しましょう。
昔、この寺の僧侶の老母が病気になり、蛸が食べたいと言いました。生臭物をとはばかりながらも、母のために寺に蛸を持ち込んだところ、蛸は薬師経に変わり、母の病も癒えたということです。
   おのおのの薬師の縁起の最後に、俳句が添えられていて、蛸薬師は「蛸の手に糸脉(貴人の腕に糸を結んで脈をとること)とれり天津風」という、蛸を凧に掛けた句で締めくくられています。現代の蛸薬師は、蛸から転じて、いぼやタコ、ひいてはがん封じ、あるいは、縮れ毛が治るようにというユニークな願をかける人々の信仰を集めています。蛸薬師通の名称の由来にもなった薬師如来への信仰は、今も昔も篤いようです。

 

(府立総合資料館資料主任 松田万智子)

その十四 薄雪物語 (京都新聞・平成19年9月27日・朝刊掲載)

    「薄雪物語」という本の名前を聞いたことがあるでしょうか。
  これは、江戸時代のはじめころ、関ヶ原の合戦が終わり、徳川の世とはなったものの、まだ何がおこるかわからないぞ、という時代の雰囲気の中で書かれた恋物語です。
  清水寺に参詣していた園部衛門という男が、薄雪という高貴な女性に一目ぼれをしてしまい、手紙を出すこととなります。ここまでは室町時代の御伽草子によくある話なのですが、実はこの薄雪、一条家の若奥さまでした。当然、薄雪は門前払いを食らわせますが、男も負けていません。人妻が男の思いを受け入れた話や、身分の違いをのりこえて相手を受け入れた話を折り込みながら、何度も手紙を出すことになります。
  男は、「恋の道」では、人妻であるかないかとか身分の上下など関係ないという立場です。薄雪は反対に、「貞女」でありたいと言い続けています。このような手紙が、美しい言葉をちりばめながら延々と続いていきます。
  「薄雪物語」は、元禄年間ころまでの大ベストセラーとして、たいへんよく読まれた作品となりました。芝居にも受け継がれていきます。京都府立総合資料館の本は、もともと寛文ごろに出版されたもので、武藤西察という当時人気のあった書家の筆跡です。物語の大半が恋文というのは画期的でしたし、実際に恋文の手本として利用されたのでしょうね。ちなみに、この二人の結末がどうなったかは、伏せておくこととしましょう。

 

(京都府立大学文学部教授 母利司朗)

その十五 明月記 (京都新聞・平成19年10月4日・朝刊掲載)

    藤原定家は、新古今和歌集の時代を代表する歌人。「歌の家」冷泉家の先祖です。源平の合戦や承久の乱といった動乱の時代を生きた定家は、明月記という日記を残しました。冷泉家には定家自筆本があり、国宝になっています。冷泉家ではメイゲッキとよばれます。

  定家自筆本は冷泉家に秘蔵され、他人が見るのは厳禁とされました。最近その全貌が写真で出版されましたが、それまでは徳川家康が命じて写させた本によってしか、内容は知られなかったのです。総合資料館の明月記も、徳川写本をもとに写した本です。
 明月記には、当時の政治・宮中の行事・生活風俗・歌壇の様子などが詳しく書かれています。うるさいほど行事の手順に筆をさいていますが、面白いのは、定家の周囲の人々の言動や新古今和歌集の編集過程を描いた部分。
 後鳥羽院は新古今和歌集の編集を精力的に指導し、熊野に何度も参詣したりする一方、和歌の苦手な人々に歌合をさせて、ひそかに笑い物にしたりします。いたずら好きなのです。金槌の人を集めて水中に落とした時には、定家はあやうく難を逃れて、ほっとしています。
 定家は不平不満の多い口うるさい性格でした。けれども、藤原家隆などの歌人は高く評価しています。定家と家隆と、書家の世尊寺行能とが没したら、和歌と書道には人材がなくなってしまうとまで、明月記に書いています。定家は和歌の天才でしたが、それだけに自負も大きかったのです。

 

(京都府立大学文学部教授 赤瀬信吾)

その十六 万葉集略解 (京都新聞・平成19年10月25日・朝刊掲載)

  万葉集略解は加藤千蔭(一七三四-一八〇八)の著した万葉集の注釈書です。注釈書とは古典の難解な個所について注解したり、訳文をつけたりして読みやすくした本のこと。現代でも古典を読む時に、いきなり原文を手にする人が少ないように、江戸時代でもまずこうした注釈書が必要でした。万葉集略解は平易な文章と簡にして要を得た注解が好評で、江戸時代後期に万葉集を読む人が必ず見る本だったと言えるほど、よく読まれました。資料館には寛政八(一七九六)年の初版を示す奥付を持つ版本が所蔵されています。
  越後の禅僧良寛和尚(一七五八-一八三一)の歌「子供らと手まりつきつつこの里に遊ぶ春日は暮れずともよし」は有名ですが、これは万葉集の「わが背子と二人し居らば山高み里には月は照らずともよし」(巻六)や「春の野に心延べむと思ふどち来し今日の日は暮れずもあらぬか」(巻十)などに基づいています。万葉集らしい表現やゆったりと春の日を過ごす心を、良寛もこの万葉集略解を通して学んだと考えられているのです。
  その注解の草稿を、千蔭は尊敬する友人本居宣長に送って補正を求め、その意見を実に八百条近くも紹介しています。そこには新見、卓見も多く、「古事記伝」の著者として知られる宣長の、万葉集に寄せる並々ならぬ探求心を垣間見ることもできます。
  写真は柿本人麻呂が琵琶湖畔で詠んだ歌「淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古へ思ほゆ」(巻三)の注です。夕暮れの渚に鳴く千鳥の声に、しみじみと大津京の盛時をしのぶ作者の心がとけ合うことを説いています。

 

(京都府立大学文学部教授 山崎福之)

その十七 京童 (京都新聞・平成19年11月1日・朝刊掲載)

    京都ブームが続いています。本屋さんには、一年中、京都のあらゆる種類のガイドブックが平積みされています。「京童」という本は、そんな京都ガイドブック、とくに名所ガイドの最初のものなのです。
  作者は中川喜雲という多彩な才能をもった医者で、俳諧もたしなみました。それぞれの文章には決まって俳句がよみこまれています。明暦四(一六五八)年に出版され、何度か再販されたようですが、総合資料館本は初版のものです。
  さて、本書の魅力です。それはなんといっても、今から三百五十年ほど前の京都の町中や郊外の様子を、生き生きとした味のある絵と文章で味わうことができることでしょう。 

    内裏にはじまり、町中近い四条河原、祇園、八坂、清水、二条城などと、現代の観光名所の定番が並んでいます。さらに郊外の永観堂、東福寺、伏見、宇治、鞍馬、大原へと案内は続いていきますが、今の景色と比べて読んでいくと興味はつきません。
  二条城には立派な天守閣が描かれています。町中のマンションに囲まれた小さな神社や寺が昔はなかなか立派なものだったり、今の場所と違う所にあったことなどにも驚くことでしょう。
  江戸時代は、京都が政治都市から観光都市へと生まれ変わっていった時代でした。「京童」はそのことを教えてくれます。

 

(京都府立大学文学部教授 母利司朗)

その十八 吾妻鏡 (京都新聞・平成19年11月22日・朝刊掲載)

    吾妻鏡は鎌倉幕府が編纂したとされる歴史書で、鎌倉時代を知るための最も基本的な史料です。しかし、原本は見つかっておらず、編集者をはじめ成立事情については不明な点が多い書物でもあります。叙述の形式は日記の形をとってはいますが、日々書き次いだものではなく、文書や各種の記録などいろいろな史料をもとにして編纂されています。内容は一一八〇年の以仁王と源頼政の挙兵から、一二六六年に六代将軍宗尊親王が京都へ帰るまでの期間を扱っています。
   「吾妻鏡」は「東鑑」とも書き、「あずま=関東」の「鏡=手本」というわけで、江戸幕府を開いた徳川家康が、鎌倉幕府を開いた源頼朝を手本と仰ぎ愛読したともいわれています。家康はまた「吾妻鏡」を出版し、江戸時代に広く読まれる基礎を作りました。
    さて、鎌倉幕府の成立時期については諸説がありますが、高校の日本史の教科書などでは、「イイクニ作ろう鎌倉幕府」すなわち、頼朝が征夷大将軍に任じられた一一九二年を幕府が名実ともに成立した年としています。
  そこで「吾妻鏡」を開いてみると、同年七月二十五日(別本では二十六日)に頼朝を征夷大将軍に任命する書類が鎌倉に届いたことや、将軍就任が頼朝の宿願であったことが記されています。
  総合資料館には写本が一組、版本が五組あります。写真の「吾妻鏡」は写本で、「広橋蔵書」という蔵書印があり、公家の広橋家に伝わったことがわかります。

 

(府立総合資料館資料主任 西村隆)

その十九 人鏡陽秋 (京都新聞・平成19年12月6日・朝刊掲載)

    明代・清代の中国で一番お金を持っていたのは、政府の専売を請け負う塩商人でした。このうまい商売を独占していたのが、安徽省南部にあたる徽州地方の人々です。
  富を手に入れた塩商人たちは、やがて名声を求めるようになります。出版事業は、手っ取り早く文化人としての名声を手に入れる絶好の手段でした。徽州は昔から有名な墨の産地ですし、虬村という村には黄氏という、代々版木彫り技術を受け継いできた一族もいます。徽州から素晴らしい本が生まれる条件は整っていたのです。
  この「人鏡陽秋」を刊行した汪廷訥は、徽州が生んだ文化的塩商人の代表といってよいでしょう。彼は坐隠園という大庭園を造ってそこに書画骨董を集め、自作の戯曲や詩文、碁の研究書などを大量に刊行しました。いずれ劣らぬ汪廷訥の刊行物の中でも、とりわけ名高いのがこの「人鏡陽秋」で、万暦二八(一六〇〇)年、つまり関ケ原合戦の年の序が付いています。内容は何ということもない有名人の逸話集なのですが、一流の挿絵画家汪耕の下絵をもとに、黄氏一族屈指の名工といわれる黄応組が彫り、最高の紙と墨で刷られたこの書物は、中国最高の印刷物の一つといってよいでしょう。
  写真は「三国志」の劉備が諸葛孔明を訪ねる場面ですが、髪の毛一本一本まで彫り込んだその素晴らしさを十分にお見せできないのが残念です。
  この本は富岡鉄斎が持っていたものです。鉄斎も、画家としてこの挿絵の素晴らしさにひかれたのでしょう。

 

(京都府立大学文学部教授 小松謙)

 

その二十 塵劫記 (京都新聞・平成19年12月27日・朝刊掲載)

    文化が大きく花開いた江戸時代、日本独自の数学「和算」も生まれ、数多くの書籍が刊行されました。その中で人々に広く知られたのが「塵劫記」です。著者の吉田光由は大堰川や高瀬川を整備した京都の豪商、角倉家の人で、総合資料館には寛永十一(一六三四)年、同二十年刊行と思われる「塵劫記」があります。
    本の内容は数の単位から測量の方法まで幅広く、また実用的な計算だけではなく「ねずみ算」など遊戯的な個所もあり、大変な人気になりました。そのため、著者の死後も「塵劫」を冠した本が明治の初めまで出版され、海賊版塵劫記は四百種類以上あると言われています。
    写真は「ねずみ算」の説明の箇所です。「正月に、ネズミのつがいが現れ、子を十二匹産む。そして親と合わせて十四匹になる。次の月には子ネズミも同じように子を産んでいくとき、十二カ月で何匹になるか」という問題で答えは二百七十六億八千二百五十七万四千四百二匹となります。急速に数が大きくなる「ねずみ算式に」という言葉は、ここから生まれています。
    もうひとつの写真は和算の計算用具「算木」です。これは罫線を引いた紙や布の上に置いて計算するもので、そろばんなどでは難しい平方根や連立方程式を解くのに使われました。
    和算の普及によって日本人の数処理能力は世界に類を見ないぐらい高くなりました。このため、明治維新以降の新しい科学の理解も簡単に出来たと言われています。そう考えると日本の発展の基礎として和算の重要さが浮かんでくるのではないでしょうか。


(府立総合資料館主事 藤原直幸)


 

その二十一 和蘭字彙 (京都新聞・平成20年1月24日・朝刊掲載)

  鎖国が行われた江戸時代,長崎におけるオランダと中国との貿易のみが許されました。長崎には通訳を担当する役人である「通詞」が置かれ,オランダ語の学習が行われました。それは貿易上必要な用語から医学用語へと広がり,次第に本格化していきました。
  オランダ商館長,H・ドゥーフが長崎通詞の協力を得て作ったオランダ語辞書「ドゥーフ・ハルマ」(一八一六年成立)は,その集大成ともいえるものです。約四万五千の単語と五万余の短文を含む立派なものでしたが,写本であったため簡単に手に入れることができませんでした。これに幕府の侍医,桂川甫周が校訂を加え公刊したものが「和蘭字彙」(一八五五-五八年刊)です。この刊行によって,本格的なオランダ語辞書が人々の間に普及することとなりました。
    写真を見ると分かるように,オランダ語が横書きで記され,その横に日本語訳が縦書きで記されています。
面白いのは,口語的表現が多く見られる点です。「スカシ屁ヒル」「アツチニ行ケ」といった表現のほか,「けしかける」という意味の長崎方言「ホシメカス」なども見られます。これは,日常会話で使用する実用的な辞書を作成しようとしたためです。
    文体は「彼ハ「アリストヲテレス」ヲ信仰スル人デアツタ」のような「である体」が用いられ,「求心力」「神経」「接吻」などの新しい訳語も生まれました。これらの訳文・訳語は明治時代の英和辞書にも引き継がれ,近代日本語の礎となっています。


(京都府立大文学部准教授   青木博史)

その二十二 源氏物語全部引歌並詩古語 (京都新聞・平成20年2月7日・朝刊掲載)

    菅原孝標女は少女のころ、夜も昼もなく源氏物語を読みふけりその喜びや楽しみは「后の位」もものの数ではないとまで「更級日記」に書き残しました。ここまで彼女を夢中にさせた源氏物語も成立して百五十年も過ぎると、既に学問研究の対象となってしまいます。
  現存最古の注釈書は「源氏釈」という書物で、源氏物語の本文が踏まえた古歌や漢詩の句を表現の典拠として指摘したものでした。また、同じく十二世紀末ころから源氏物語は和歌を詠むための必読文献として大層尊重されるようになります。鎌倉室町期にかけて、歌人達はもっぱら源氏物語の言葉を用いて和歌や連歌を詠むことが推奨されました。そのため、源氏物語の表現に対する和歌的な関心はますます強まっていきます。
  「源氏釈」で指摘されたもの以外に、源氏物語の表現とかかわりのある和歌が次々と増補され後の注釈書に受け継がれていきました。さらには源氏物語の言葉を使って詠まれた後の和歌まで参考歌として重視されました。
  総合資料館蔵「源氏物語全部引歌並詩古語」は江戸中期以降の成立と思われますが、巻ごとに源氏物語の言葉を抜き出し、その表現の典拠(引歌)や先例(証歌)を提示した書「源氏釈」以来の伝統的な注釈の形をとっています。おそらく身分の高い女性の教養に役立てる用途ではないでしょうか。本書もまた、八百年にも及ぶ源氏物語と和歌文学との深いかかわりを示す書物の一つと言えるでしょう。


(京都府立大学文学部教授 安達敬子)

その二十三 伊勢物語闕疑抄 (京都新聞・平成20年2月28日・朝刊掲載)

  「伊勢物語」は、ある男の元服から死までを和歌と語りでつづった歌物語です。三十六歌仙のひとりで美男子の在原業平がモデルとされています。
  「伊勢物語闕疑抄」は、戦国時代の武将、細川藤孝(幽斎)が著した注釈書です。闕疑とは、論語に出てくる言葉で、闕は欠の意味です。つまり疑わしきを取り除くという意味で、抄とは注釈書です。室町時代の伊勢物語研究の集大成で、江戸時代の研究にも大きな影響を与えました。総合資料館所蔵本は、藤孝の自筆本を弟子の中院通勝が書写したものを、御霊神社の別当、法眼祐孝が転写したもので、通勝の子、通村自筆の奥書がある由緒正しい伝本とされています。
  武将としての藤孝は、はじめ足利将軍に仕え、後に信長、秀吉、家康と、その時々の天下人に重用され戦国の乱世を生き抜きました。その一方で、歌人であり、茶道、有職故実、音曲にも通じた一流の文化人でもありました。
優れた歌人であった藤孝は、連歌師の宗祇の学統を継ぐ三条西実枝から古今伝授を受けています。これは、「古今和歌集」の解釈を秘説相承の形で伝授することで、実枝の子が幼かったため、高弟の藤孝が中継ぎとして継承したものです。関ケ原の戦いで徳川方についた藤孝が、西軍に居城を包囲された時、古今伝授の断絶を恐れた後陽成天皇の勅命で、城の包囲を解かせた逸話も伝えられています。
    本書は、総合資料館の前身でもある京都府立図書館で大正三年に購入されました。当時の館員に、森鴎外の末弟の森潤三郎がいて、館長の湯浅吉郎とともに貴重書の数々を収集しました。


(府立総合資料館資料主任 松田万智子)

その二十四 人倫糸屑 (京都新聞・平成20年3月6日・朝刊掲載)

  天和二年(一六八二)、西鶴による「好色一代男」が出版されて以来、好色を題材とする「好色本」は人々に大いに受け入れられるようになりました。元禄期(一六八八-一七〇三)の本屋(出版)業界の実情を描いた都の錦作「元禄大平記」(元禄十五年刊)には、京都の本屋が「あきなひの勝手には、好色本か重宝記の類が増じや」と発言する場面が出てきます。当時の本屋にとって「好色本」がドル箱であったことがうかがえますが、もう一つ「重宝記」というジャンルもベストセラーであったことがわかります。
    「重宝記」とは文字通り「重宝する本」で、日常生活を送る上で知っておくと便利なさまざまな豆知識を提供する小百科事典のような書物のことです。料理や算盤の仕方から礼儀・作法、はたまた着物に付いたシミの落とし方や頭に髪が生える薬の調合に至るまで、当時の雑多な必要知識が記されています。「好色一代男」が世に出た天和期(一六八一-八三)に「重宝記」も事実上誕生しましたが、天和・貞享(一六八四-八七)・元禄期を通して、異なる二つのジャンルは二大ベストセラーになるまでに成長しました。
  総合資料館所蔵「人倫糸屑」(貞享五年刊か)は「好色本」と「重宝記」を兼ね備えたような本で、好色や風俗に関係する人々のことを読み物風にして解説した内容となっています。写真は「麁相者」の項目ですが、暗がりで唐辛子を赤く燃える炭火と誤って火箸ではさんだり、かまどの中にいる猫の目が光るのを残り火と思い込んでキセルに点火して喫煙しようとする「そそっかしい者」たちが紹介されます。
 

(京都府立大学文学部准教授 藤原英城)

その二十五 新宮撰歌合 (京都新聞・平成20年3月27日・朝刊掲載)

    歌合は、八〇〇年代末期ころに生まれました。和歌一首ずつを左と右とに並べて、勝負を競うものです。不思議に思われるかも知れませんが、相撲がその原型だったとも考えられています。平安時代の半ばころまで、歌合はお祝いの要素の濃い、ゲーム的なものでした。     
     歌合いの文芸的な性格が高まるのは、一一〇〇年代、院政期に入ってから。背景には、和歌を専門とする貴族の家、歌の家の成立がありました。京都の冷泉家の源流、御子左家もそのひとつです。藤原俊成・定家の父子が、御子左家の基礎を築きました。
    新宮撰歌合は、一二〇一年三月下旬に開催されました。新造された二条殿御所の落成祝いとして、後鳥羽院が主催。まず二十六名の歌人が、各十首の和歌を提出しました。次いで後鳥羽院や定家など数名の歌人たちが、そのなかから七十二首を選りすぐって、三十六番の歌合に仕立てます。さらに二十九日、和歌の作者名を隠したうえで、優劣について激しい批判の応酬をおこない、最終的な勝負の判定を竣成が付けました。歌合の勝負を決める審判を、判者とよび、歌壇で最高の歌人がつとめました。
    新古今和歌集の編集が始まるのは、新宮撰歌合の七カ月ほど後。新古今時代は和歌史のピークのひとつです。定家や藤原家隆といった、優れた才能を輩出しました。総合資料館の新宮撰歌合は、新古今時代の仙洞十人歌合や水無瀬桜宮十五番歌合と、一緒にとじられた、貴重な室町時代の古写本です。

 

(京都府立大学文学部教授 赤瀬信吾)
    = おわり

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